侘び(数寄)茶とは?箱書きをキッカケにして(ちょっと辛口です) - 藤庵の日記(茶の湯その他) teaceremonytouan

一椀のお茶を通して直心の交わりをいたしたいと願っています。手持ちの茶道具のほとんどは手づからのもので名物とか高価な道具はございません。丿貫の様な極侘びの茶です。お楽しみいただければ幸いです。ブログの記事には茶の湯の他日々の事など自ら記録として書き留めている事柄もございます。

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藤庵 teaceremonytouan

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茶の湯に関係することを主に書いてます。
「茶の湯は総合芸術」と言われますが、その意味は、僕はいろんな書画、陶芸工芸の貴重な作品をありがたく使用させていただいてるという謙虚な姿勢が必要だと思います。
このほか、自作の日本画や工芸作品、またアクアリウムなども掲載しています。

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侘び(数寄)茶とは?箱書きをキッカケにして(ちょっと辛口です)

侘び茶の祖は利休か、それとも紹鴎か?
利休と答える方が多いと思います。
暮れからずっと古書を読んできて見えてきた事など(世間の茶道家は自らのアイデンティティが揺らぐので言わない事など)。


確かに、利休は侘び茶を一つの体系として確立したかもしれません。口伝がほとんで有った当時、弟子の数とそれ以降への引き継ぎが大勢を左右するのは事実です。
私は侘び茶を利休に教えた紹鴎が侘び茶の祖と思っています。残念ながら紹鴎の茶は受け継ぐものが大勢を占めなかった為メジャーにならなかったと。
「箱書き」の話が冒頭からずれてるようですが、多くの方が抱いている侘び茶と利休の関係を一旦否定すると、花押も箱書きも侘び茶には本来無意味な事と見えてくると考える次第です。


宣教師ジョアンロドリーゲスの書を読んでも、既に当時の侘び茶が例えば「市中の山居」を目指すため、茶室建築に当たり遠方より貴重で高価な柱を買い求めたり、蹲やクヌギ石など高価な石を求めたりと、所詮は「金持ち」の侘び住まいへの一種の憧れであったと書いているのは大変興味深い。
利休も「棗はザッと塗れ」と言ったものの、自らはちゃんと蒔絵の棗を保持していた。
宗旦も自分は仕官しなかったが、子供たちには、紀州、加賀、高松にそれぞれ仕官を果たさせ千家の安泰を図り武家茶道との融合に成功した。
ここに、早くも紹鴎が祖、利休が大勢した侘び茶は完全に途絶えたと私は考えます。
そう言う根源的な侘び茶の黎明期の成り立ちを考えると、やれ花押だ箱書きだと言うのが、世間で言う「道具茶」と揶揄するものと殆ど変わらない事が見えてきます。
茶の湯の真髄は「もてなしの心」であって道具披露会では決して無い。
原点に返って、極端な話、見せた道具を差し上げるならまだしも、見せるだけなら「自慢」にしかならないとも。


戦国武将達が、大名物の茶壺や茶入れを数千貫で買い求めた悪癖が今日まで続いているが、そんなものは「侘びのマネ」でしか無い。
秀吉が織部に、利休の茶は町人の茶であるから、それを武家の茶に改めよと命じたそうです。
織部は、その言葉通り武家茶を広めそれ以前の利休流の侘び茶の良いとこどりでバランスを取った。ここに及んでも、茶の湯は大きく変容を遂げ、「侘び茶」は江戸中期以降どんどんと変容し侘びとは名ばかりの、いわば「ハレ」の茶が隆盛を極めるようになったと考えます。
明治以降、大名に変わって財閥系の新興勢力による名物の収集とそれを披露する茶会。これなども、侘び数寄茶とは一番遠い立ち位置に有ると考えます。
そして、上記のような茶会は今日にも続いている。