古田織部について 侘び茶を武家茶に変えていった織部 - 藤庵の日記(茶の湯その他) teaceremonytouan

一椀のお茶を通して直心の交わりをいたしたいと願っています。手持ちの茶道具のほとんどは手づからのもので名物とか高価な道具はございません。丿貫の様な極侘びの茶です。お楽しみいただければ幸いです。ブログの記事には茶の湯の他日々の事など自ら記録として書き留めている事柄もございます。

プロフィール

藤庵 teaceremonytouan

Author:藤庵 teaceremonytouan
茶の湯に関係することを主に書いてます。
「茶の湯は総合芸術」と言われますが、その意味は、僕はいろんな書画、陶芸工芸の貴重な作品をありがたく使用させていただいてるという謙虚な姿勢が必要だと思います。
このほか、自作の日本画や工芸作品、またアクアリウムなども掲載しています。

最新コメント

- コメント

古田織部について 侘び茶を武家茶に変えていった織部

古田織部について少し書籍を読んでます。




藪内流と縁が深いという事で、燕庵のイラストを♪


三畳台目で、相伴席も有って貴人を迎えるに当たっては使い勝手が良かったと思います。
(しかしながら、いわゆる貴人口は作らなかったと言われてます。これも織部のこだわりの様です)


五代の藪内竹心は大垣出身でも有り近くでも有り親しみがあります。
#燕庵
#藪内流
#藪内竹心
#三畳台目
#茅葺
#茶室


もう一つ、武野紹鴎や利休の侘び茶が変容していった背景には、大名らの影響が大きい様に思います。


その一つの例
秀吉が早くも織部に以下の様に命じたとの事。
「利休相伝の茶の湯と言うのは、要するに堺の町人の茶であるから、武家にはふさわしくない。だから利休流町人茶をば、武家流、大名風に改革せよ」(「古田家譜」、桑田忠親氏) 

そういえば、宗旦が示した利休七哲もすべてが武家ですよね(利休の遺志を継ぐ町人階級はいなかったのか?)。
 宗旦は、自分は仕官するのを避けましたが、息子達三人はちゃんと仕官させてお家の安泰を図ってます。

 ここからは、私見ですが、利休流の侘び茶から武家茶に変容せざるを得なかったと考えます。
 棗は漆をザッと塗れと言った利休の侘びから、金高蒔絵の装飾性豊かな棗に変わって行くのも頷けます。

 日本人は、ハレの場ではどうしても「派手」を好み、侘びを置き去りにする傾向があります。
武家茶道の豪華絢爛な装飾性への志向と町衆と言えど、ハレの場では派手を好む国民性から、武野紹鴎や利休が目指した侘び茶は、利休の死後ほとんど直ぐに変容して行くことになったと考えます。



利休が秀吉に対して頑固なまでに自らの茶の湯を押し通したのは、茶の湯を通しての「階級闘争」であったようにも思います。

将軍を指南する天下の茶堂となった古田織部は、これと逆に利休の茶と武家の茶を上手く使い分けたのは、確かですね。