茶道掟より徳川吉宗の孫松平定信の書き残した書物より。
我が意を得たりの数々にて釈迦に説法とは思いますが紹介いたします。
「小児の手引きあう姿のふた置などは、姿おかしきとても其の意を失せり。人のかたちのあるものに、釜のふたの熱したるを、袱紗も取りてその小児の頭に置かんは心なしとも言うべし」
「わびしきは雅なりとて、わざとひなぶれたるも、その分限にはあらざるべし。よくその程々を守るこそいみじけれ。茶室、四畳半、小座敷、数寄屋、囲いなどさまざまあれども、得難き材を求め、造作甚だ結構を尽くす事こそ真意に背けり。」
「会席も一汁一菜しいて二菜たるべし」
「かの池田さくら(池田炭の事)なんどと言う炭を持ってせざれば茶事も調わずと思うは非が事なり」
「茶は如何にも良きをこそ求めたけれ。されど、遠つ国隔てたるが宇治の茶とて、多くの費えをかけて求むるは背けり。庭園などに植え置きたる茶など製し侍りたき事にて、かくあらば、宇治の茶よりもかぐわしかるべし。」
「掛物というものの書画尊むはその人を尊ぶにてこそあれ。得難き墨跡をのみ求むるは本意にはあらず。利休なんども、自ら切りたし竹の花活にわが削りし茶杓使いたりし、風流事に勝れたれ。(中略)利休の切りし花活けかけたらんよりも、自ら園中の竹切りて出したらんは、かえって利休の意にもかない得るべし(中略)、茶杓も今は古茶杓を多くのこがね出してかいもとむるぞ、象牙を竹にかえしほいに背きたる事、言わずして知るべし。」
寛政六年五月 左少将源定信 花押
我が意を得たりの数々にて釈迦に説法とは思いますが紹介いたします。
「小児の手引きあう姿のふた置などは、姿おかしきとても其の意を失せり。人のかたちのあるものに、釜のふたの熱したるを、袱紗も取りてその小児の頭に置かんは心なしとも言うべし」
「わびしきは雅なりとて、わざとひなぶれたるも、その分限にはあらざるべし。よくその程々を守るこそいみじけれ。茶室、四畳半、小座敷、数寄屋、囲いなどさまざまあれども、得難き材を求め、造作甚だ結構を尽くす事こそ真意に背けり。」
「会席も一汁一菜しいて二菜たるべし」
「かの池田さくら(池田炭の事)なんどと言う炭を持ってせざれば茶事も調わずと思うは非が事なり」
「茶は如何にも良きをこそ求めたけれ。されど、遠つ国隔てたるが宇治の茶とて、多くの費えをかけて求むるは背けり。庭園などに植え置きたる茶など製し侍りたき事にて、かくあらば、宇治の茶よりもかぐわしかるべし。」
「掛物というものの書画尊むはその人を尊ぶにてこそあれ。得難き墨跡をのみ求むるは本意にはあらず。利休なんども、自ら切りたし竹の花活にわが削りし茶杓使いたりし、風流事に勝れたれ。(中略)利休の切りし花活けかけたらんよりも、自ら園中の竹切りて出したらんは、かえって利休の意にもかない得るべし(中略)、茶杓も今は古茶杓を多くのこがね出してかいもとむるぞ、象牙を竹にかえしほいに背きたる事、言わずして知るべし。」
寛政六年五月 左少将源定信 花押